人生をやり直したいと思っていた。特段、人生で詰みという状態ではない。結婚もして、子供も作り、生活はそれほど楽ではないが、毎日がつらく苦しい日々というわけでもない。
ただ、自分は何者でもないという気持ちがあった。自分は空っぽだ。仕事にやりがいがあるわけではなく、使いきれない金があるわけでもなく、誰かに誇れるようなスキルがあるわけでもなく、いざというときに頼れる権力、コネといったものもなく。
積み重ねたものが悪かったのかもしれない。ただ自分に才覚がないだけなのかもしれない。とにかく、自分が世界で生きている理由はなく、物語で言えばその他大勢のモブで、たとえいなくなったとしても何の影響もない。自分はそんな存在だ。
もしも、過去に戻れたら。そう思うことがある。未来を知っているというのは大きなアドバンテージだ。競馬や株だけでも、大金を作れる。大金を作れればそれだけで選択肢が広がる。今の仕事をやる必要はないし、もっと今より違う自分にだってなれる。何物でもない今の自分ではなく、それよりもずっとすごい何かになれる。
実際にそんなことは起こりえない? そうだろう。起こるわけがない。実際には起こりえず、だから人はこんなことを言う。たった今、10年先の未来から帰ってきたつもりで生きればいいと。そうすれば、これからの10年の未来が変わると。
そんなこと、簡単にできれば苦労はない。それに変えたいのは未来ではない。今だ。過去を変えることによって、今を変えたいのだ。
「過去に戻れますよ」
そんなことを言われたのは、とある休日の夜。家に妻子を置いて安居酒屋へ行き、何杯かのビールを飲んだ帰り道。家の近所のさびれた公園の前を通った時だ。
「は?」
耳元でささやかれたような声に振り返ると、そこには見るからに占い師、という服装をした女性がいた。ここは閑静な住宅街で、時刻も日付が変わるまであと少しという時分。当然人通りが多いわけではなく、占い師の商売に向いているような場所ではない。しかし確かにその占い師はそこにいる。街灯の下、水晶玉を載せた小さなテーブルの前に座り、全身を覆うような服装で目だけがこちらを見ていた。
確かに自分としては、今日は少し飲みすぎている。アルコールが脳を回っている自覚はあるし、実際視界は少し歪み、揺れている。それでも正気ではあると思う。とても場違いな何かを目にしている。そう理解する頭はあった。
「人生をやりなおしたいのでしょう?」
彼女の眦が下がり、微笑んだのがわかった。テーブル前の小さな椅子にすわるよう、彼女の手が自分を促す。その椅子に座ってしまったのは、やはりアルコールで正気ではなかったからだろうか。
「誰でも人生をやり直したいという思いがあります。もう一度機会があればもっとうまくやれるのに、とか、今の自分ならばもっとできるのに、とか」
彼女はそう言うと、水晶玉に視線を落とした。つられるようにしてみた水晶玉は何やらきらめいて見えた。街灯一つしかない薄暗い公園の前で、こんなにもきれいに見えるのかと思えるぐらいに。
水晶玉から目が離せなくなった。瞬きすらできない。まるで吸い込まれるかのようだ。
「ほら、見えるでしょう? あなたの過去が。今の自分を捨ててでも、やり直したい過去が」
今の自分は空っぽだ。捨てるも何もない。
過去に戻れたら。人生をやり直せたら。今の空っぽの自分という器に、もっときらびやかなものを入れることができるのだろうか。生きている意味、人生の意味を感じることができる、価値ある宝石のようなものを。
「ほら、見えるでしょう?」
ああ、見える。過去に失った自分が。今ならもっとうまくやれるのに。そう思える昔の自分が。後悔とともに思い返すしかなかった、自分が。
「ほら、見えるでしょう? もう、それしか見えないでしょう?」
占い師のつややかな声が、優しく耳朶をなめていく。
ああ、見える、見える……。
目覚まし時計の音で目覚めた。電子音ではなく、ベルが実際に鳴らされるタイプ。うるさいやつだ。
叩くように時計を止めて、重たい瞼を無理やり開きながら時計を見る。時刻は朝の6時半。おかしい。目覚ましは6時にセットしたはずだったのだが、寝坊したのだろうか。
「あ―変な夢見た。眠い」
ぼやきながら体を無理やり起こし、そこで気づいた。ベッドで寝ている。いつもは布団を敷いて、全員で川の字になって寝ているのに。周りを見渡しても妻と娘もいない。いつもなら妻は先に起きて食事を作り始めていて、娘は腹を出して寝ているころだが、どちらもいない。
酔った勢いで間違いでも犯したかと思ったが、誰かがいる気配もない。見たところここはワンルームで、散らかった部屋は女っ気も感じない。
「あれ……?」
ここで気づいた。この部屋は見覚えがある。いや、懐かしさすらある。もう20年以上も前。学生の頃に数年間だけ住んでいたアパートの部屋にそっくりだ。いや、そっくりというよりもそれそのままだ。無造作に置かれた雑誌、テレビに接続されたままのゲーム機、スリープモードで時折ランプが光っているノートパソコン。捨てられずにおいてあるカップ麺のゴミや、脱ぎ捨てられた服。学生のころにだらだらと過ごしていた時の部屋だ。
ベッドから降りると、慌てて洗面所に向かった。薄汚れた鏡に自分の顔が映る。そこには白髪の混じった中年の顔ではなく、しわ一つない若い男の顔が映っていた。見まごうことはない。間違いなく自分の顔。まだ若く、可能性のあった学生の頃の顔。
「なんだよこれ」
どうなっているのだろうか。混乱する頭に思い浮かんだのは、薄暗い中で浮かぶように見えていた占い師の目と水晶玉。そして占い師のあの言葉。
『過去に戻れますよ』
そうなのか? 過去に戻れたのか? 失ったはずの可能性を、再び手にしたのか?
「マジか?」
つぶやくような言葉とともに、べたではあるが頬を抓ってみた。
頬は痛みを感じ、そして目は覚めなかった。
状況を整理すると、大学生のころに戻ったようだった。学生の頃は1年1年が長く、特別だ。社会に出てから身をゆだねていた時間の流れとは違う。やることがたくさんで、ずっと追われていて、走り続けていて、なぜ走っているかもわからなくなるような日々とは違う。毎日授業はあるが、適度に時間が空くように調整できるし、遊ぶ時間を作ろうと思えばいくらでも作れる。アルバイトだってできる。サークルだってできる。楽しむために時間を作り、楽しむために気軽に働き、やりたいと思うことをやれる。生活費は親が出してくれている。自分で生活のために働くといったことは必要ない。
なんと素晴らしい。
「恵まれた状態だ。今のうちに金を作ろう。金さえたっぷりとあれば、これから先もずっと自由だ」
大学を出て就職して、結婚して、子供もできて。
一見幸せに見えても、その実、生活のためや家族のために身を粉にして働くだけの日々。まじめな大学生活を送ったわけでもなかったから、それほど条件の良い会社に入ることもできず、安月給で汲々としている。
親ほど上等な人間でもなく、時代もよくない。大学でしっかり勉強しなかったというのもある。それでも生活のための仕事、仕事のための生活を日々送るのは正直しんどい。鬱屈としたものが体の中にあることがわかり、しかしそれをどうすることもできない。
なんと不自由。自分の人生の主役は自分ではない。生きている意味があるのか。そのような思いを抱くこともあった。
しかし、やりなおせる。
金さえあれば、金のために働くことはない。好きなことをして生き続けることができるのだ。
「どうやって金を作るかな」
方針は一つ。過去の知識を使って儲ける。どうすれば手っ取り早く、大きく稼げるか。
手っ取り早くといえばギャンブルだが、パチンコやスロットでは知識が役に立たないし、競馬はやったことがない。1000万馬券が出た、というようなニュースをたまに聞いた覚えがあるが、いつ、どこで、どのレースだったかなど覚えていない。
不動産も大きく稼げそうだが、先立つものがないし、たとえ買えたとしても、すぐに金を増やすことはできそうにない。
「株とか為替かな」
この二つはレバレッジがきく。例えばこの時代、為替なら100ドルを保障に1万ドルを買うことも可能だ。ただし想定以上の値動きであっという間に破産する可能性もある。為替だと、過去の知識ありでも身を滅ぼしかねないギャンブルになる可能性がある。
それならば株か。こちらも資金や株を担保に、数倍の株式を買うことができる。為替ほど想定外の動きはしないし、本来手元にない情報が自分にはある。それを使えば、危なげなく金を儲けられるはずだ。
「新製品で一気に爆上げしたようなやつとか、想定外に倒産したような企業がいいよな。何かあったかな」
今の時代、この国は景気がよくはない。それでも大化けする企業というのはあるし、そういった企業はとても目立つから、昔よく目にしていた。探せばきっといくつか、大化けする前のものが見つかるだろう。
「ああ、その前に株取引できるように手続きしなきゃな」
うきうきとした気持ちで、未来では骨とう品といえるようなPCを立ち上げ、必要な情報を漁り始めた。
こんなふわふわした気持ちになるのは、本当に久しぶりだった。
あっという間に数か月が過ぎた。
記憶というものは不思議なものだ。この時代に戻ってきたときには忘れていたことも、時間とともに思い出したりする。それは細かなことも含めてで、例えば明日の新聞の見出しや、ちらっと見ただけのネットニュースなども鮮明な記憶として蘇る。身体が若返ったからかもしれない。それは株取引をするにとても有利なもので、信用取引を利用することであっという間に利益が積みあがる。ただの学生で手元に資金がなかったにもかかわらず、この数か月で億の金を自由にできるようになった。税金のことを考えても、だ。
元手がなかったから思っていたよりも時間がかかったが、とにかく億という金を手に入れた。20歳になったばかりと考えれば破格だ。だが足りない。もっと稼がなければ。10億、20億という金があれば、一生遊んで暮らしていける。
それに、必ずと言っていいほどに勝てる株取引というのは、楽しい。とても楽しい。世界が自分を中心に回っているようで、幼子のころ持っていた全能感が蘇る。昔のそれは単なる勘違いだが、今回は違う。
世界の有能な人間を出し抜いて、株取引で儲けている。
「もっとだ。元手が増えたから、これからもっと儲けが加速する。もっとだ」
元手があるのだから、不動産投資にも手を出そうか。これから土地の値段、マンションの値段はどうなるんだっけ。
そう考えながらネットニュースを漁っていると、また鮮やかに昔の記憶が蘇る。このあたりの土地やマンションを買っておくと、後ほど利益が大きく出る、そういったような記憶が。
だが利益が出るのはずっと先だ。それならば株式投資を続けた方がよさそうだ。
「2週間後に最高益を出して株が上がる会社があるな。あと特別損失を出して赤字転落の会社もある」
色々な会社に投資して、そのすべてで儲ける。
こういった情報は本来インサイダーだから、場合によっては疑われる可能性もあるが、多数の株に投資をしてそのすべてで儲けているのならば、逆に疑われないだろう。注目はされるかもしれないが。
「カリスマトレーダーとして有名になるかもしれないな」
口から漏れるひきつったような声が漏れる。自分が笑っていることに気づくのに少しかかった。
「食事の予算は20万、と。どんなもんなんだろうな」
銀行から引き出した50万をテーブルの上に置き、にやにやしながらそれを眺める。
金はため込むばかりでは意味がない。使ってこそ金の意味がある。そう思い立って現金を手にし、高級レストランの予約を入れたのは株取引を初めて半年がたったころだ。資金は10億を越え、投資に回してない余剰資金が1億を超えている。さすがに使い始めてもいいだろう。
午前中に買い物を済ませ、レストランに来ていく服もそろえた。まだ昼なので予約の時間までまだあるが、今日は株取引はしないことにする。株取引を始めると夢中になりすぎて予約をすっ飛ばす可能性がある。
少し時間ができてしまった。
「そういえば、大学に全く行ってないな」
忘却の彼方となっていた大学に対し、久しぶりに意識が向いた。株に夢中になっているうちに4月が過ぎ、学年も一つ上がっているはずだが、今は2年生か、3年生か、それすらおぼろげだ。少なくとも今年度は全くと言っていいほど授業に出ていないから、留年は確定だろう。そもそも大学に行く意味すらもうないといっていい。将来は安泰だ。
いや、大学はそれだけのものではなかった。友人と、未来の妻がいる。すっかり忘れていた。
久しぶりに顔を見に行こう。幸い大学までは徒歩ですぐに行ける。そのために一人暮らしを始めているのだから。
「今俺が何をしているのか、どれだけの金があるのか教えたら、きっと驚くぞ」
今日の食事は金を使う練習のようなものだ。実際に金を使い始めたときは、一人のためではなく周りのためにも使った方がいいだろう。それで困るような資金ではなくなっているし、一人で遊ぶよりもみんなで遊んだほうがきっと楽しい。
今の時間ならば、ちょうど昼食時だ。日課のように3人で集まって食事をしていたので、よく覚えている。いつも通りのあの場所。そこに行けば、会えるだろう。
「そういえば、こっちへ戻ってからずっとランチを一緒にとってなかったな」
そんなことを考えながら、アパートの部屋を出た。
大学の門を通り、敷地内に入って、しばらく周囲を見まわした。考えてみると、過去に戻ってきて1度も大学に来ていないので、これが20年以上ぶりの大学だ。目の前の光景に記憶が刺激される。
もともと自分は不真面目な学生だった。留年しないよう、とにかく卒業できればいいぐらいの適当な学生だ。どちらかというと友人や元妻に合うために通っていたといってもいいぐらいだった。
久しく忘れていた友人や未来の妻への感覚が蘇るのを感じながら、とあるベンチに向かう。二つのベンチが向かい合うように設置されているそこが、いつも3人で食事をする定番の場所だ。
もしもそこにいなければ、改めて二人を探せばよいと思っていたが、幸いなことに二人はそこにいた。
「あ!」
二人が自分を見て驚いた顔をした。
「久しぶりじゃん。全然大学に来ないからどうしたんだって思ってたよ」
「そうだよ。連絡も付かないしさ」
「悪い悪い。ちょっと熱中することができてさ。ずっと家にこもってたよ」
「なにそれ? まあとりあえず座りなよ」
友人と未来の妻が並んで座っていたので、その体面に座り、二人を改めて見た。
友人とは社会人となった未来でもちょくちょく飲みに行くぐらいの関係は維持している。あの占い師に合った夜も、こいつと飲んだ帰り道だった。あの夜、まったく変わらず若いままだな、なんて会話をした覚えがあるが、実際にはやはり年を取っていたのだなと感じる。なによりまとっている雰囲気が若い。
妻も当然若い。母親になる前の妻、結婚する前の妻。それぞれが大きな変化をもたらしたのだな、と今更ながら思った。そう悪い変化ではないような気がしたので、それはそれでよいとも思う。
「で、何してたんだよ あ、そうだご飯は?」
「食事はあとでとる予定なんだ。銀座の方に、夕方ぐらいにさ」
「はぁ? なんでそんなところに?」
「夕方って、まだ先だね。つまんどく?」
「お、サンキュー」
妻が差し出した弁当の唐揚げを口にして、ベースは同じだけど未来の方がうまいな、と思いながら飲み込む。
「実はさ、株式投資を始めたんだよね。それにはまって、大学に来るのは半年ぶりぐらい」
「授業に全く出てないの? 秋だよ? 単位は?」
「まずくない?」
驚く二人ににやりと笑って見せた。
「心配ない。留年確定だけど、その前に大学はやめるから。これからは株式投資を仕事にするから、もう大学は必要ない」
「マジで言ってるの? だいじょうぶなん?」
「大丈夫だよ」
眼鏡の友人が眉を顰めるが、当然大丈夫だ。どれぐらいの儲けが出ているかを口にすれば、噓をついていると思われるぐらいの金をすでに稼げている。一生働かなくても生きていけるぐらいの金だ。そしてそれは、さらに増やすことも可能だ。自分が生きた未来は、まだまだ先だからだ。自分の知る未来の知識は、まだまだ金を生むことができる。
「それよりもさ、今日暇だったら、ふたりも一緒に食事に行かないか?」
未来の妻と、さえない自分と長く友人でいてくれる相手だ。一人の食事よりも楽しくなるだろう。それに自分が得た幸運を分け与えたい。そんな気持ちもあった。
しかし二人は顔を見合わせると、首を横に振ってみせた。
「あー、ごめん。実は予定があってさ。映画にいくんだ」
「ちょっと楽しみにしていたやつなんだよねー。今日が公開なんだ」
「え? 二人で行くのか?」
妻の意外な言葉に声が若干上ずる。妻はどちらかというと身持ちが固いほうだ。付き合うまでは、二人で出かけるということはなかった。三人で出かけることはあっても、二人で映画に見に行くなんてことは、明確に付き合い始めてからだった。
……いや、待て。
「あー、えー、その……」
言葉にならず、力ない指先で二人を指さす。
「あ、言ってなかったな。実はさ、付き合い始めてさ」
「誰かさんが全く大学来ないし、二人で食事をしているうちにね。へへへ」
照れたように笑う妻の顔を、真っ白になった頭で見る。
違うだろ。お前は、自分と付き合うはずだろ。一緒に過ごすうちにだんだんと距離が詰まっていき、近くにいるのが当たり前みたいな感覚になって、それで付き合い始めるはずだろ。
『一緒にいるうちに、なんかね。えへへ』
自分の横にくっつき、そんな報告を友人にしていたはずだろ。
「ごめんな。また誘ってよ」
「お願いねー」
「……あ、ああ」
拝む真似をする二人にひきつった笑みを浮かべ、かろうじてうなずいて見せた。
家にどうやって帰ってきたのか、記憶にない。気が付けば真っ暗な部屋の中、ぼうっとパソコンの画面を見ていた。電源を切ることのない、株取引のためのパソコンの画面が、唯一の光源。時刻は20時を回り、銀座の店の予約時間はとうに過ぎている。
何が起こったのか。どうしてこうなったのか。彼女は、自分の恋人になり、そして結婚し、家庭を作るのではなかったのか。子供もできていたし、ローンを組んで家だって買った。そういった未来は、どこに行ったのか。
「せっかく金ができたのに」
金さえあれば、やりたくもない仕事を辞められる。本当にやりたいことをやり、我慢もせず、好きに生きられる。
妻にも自由ができる。贅沢だってさせてやれるし、子供の教育だって制限なしで色々なことができる。
そんなことを思っていたのに。
「なんで変わっちまったんだ?」
目がパソコンの画面をとらえた。そこには1億を大きく超えて10億に近い利益が表示されている。この半年間の成果だ。そして、前の人生ではありえないものだ。
未来を変えたのは自分だ。
「待て、待て……」
そんなつもりじゃなかった。自分はただ、もっと良くしたかっただけだ。もっと良い人生を歩きたかっただけだ。そのための機会をつかんだだけだ。
それなのに、手の中に合ったものがこぼれていってしまった。
妻の笑顔が浮かんだ。自分に向って恥ずかしそうに笑った顔は、しかし今は別の人間に向いている。
だったら、割り切ってしまえばいい。今の金があれば、もっといい女を捕まえることだってできるだろう。モデルのような、アイドルのような、前回の人生ではお近づきになることもできなかったような女を手にすることだってできるだろう。裕福な人間、あふれるような金を持つ人間には、色々な存在が近づいてくる。愛人を作ることだってできる。複数の愛人を囲い、退廃的な生活だってできるだろう。今手にしているのは、それだけの金だ。
それでいいのか? ……いや、だめだ。あの笑顔を、自分に向かって掛けられるあの声を、あのぬくもりを失えない。
それに、ぬくもりは一つではない。
「……」
妻と結婚しなければ、当然子どもだってできない。あの子は、誕生すらしないことになる。生意気になってきているが、それでも自分を父と呼び、泣きながら首にかじりついてきたときの記憶は色あせない。
妻子を失うことなど、できない。生きていく意味すら分からなくなる。
それならば、やることは一つだ。友人には悪いが、妻を取り戻す。どうやったって、取り戻す。
ずれたレールを元に戻すのだ。
「大丈夫だ。あいつの好きなものは知ってるし、俺に気持ちを向けさせることだって……」
勢いよく立ち上がり、すぐに力なく座り込む。
妻の気持ちを友人から取り戻す? これから妻にアプローチをかけて? それで簡単に自分に気持ちを動かすような女じゃないことを、自分が一番知っているのではないか?
無理だ。
「どうすればいい。どうすれば……」
考えはまとまらず、時間だけが過ぎていく。
翌日の昼時、ほとんど眠れないままに大学へ向かった。二人はいつも通りに、いつも通りの場所にいた。二人で笑いあいながら昼食をとっている。
近づきがたい、そんな気持ちがあって、足が止まった。そのまま少し離れた場所で、二人を眺めた。
結局、どうすればいいのかなんてわからなかった。わからないまま、どうすればいいのかわからないからこそここに来た。
ただ、会いたかった。
すべてを割り切るのが現実的な答えなのだろう。前の人生を変えるために行動し、そして人生は変わった。思った通りではなく、元々持っていたものを失うという形で。しかしこれから先、得るものも多いだろう。今回の人生では、妻とは道が異なってしまったが、それを良しとして前に進むのが本当はいいのだろう。
幸い、友人はいいやつだ。きっと妻を幸せにしてくれる。もやもやとした気持ちは晴れないが、それは二人の近くにいるからだろう。距離を置けば、きっと心の整理もできるはずだ。
自分に言い聞かせるように考えながら、しかし、やはり子供のことに思いが及ぶ。
自分の行動のせいで、あの子は世界に誕生できない。そのことだけは、どうしても心の中で折り合いがつかない。
「……おいってば」
「え?」
気が付くと、友人が近くに来ていた。
「ぼーっとしてどうしたんだよ? さっきから呼んでるのにさ」
「あ、そうだったか……」
「どうしたんだよ。……まあいいか。ほら行こう」
釈然としなかったのか、友人は少し首をかしげたが、すぐに妻のいるベンチに向かて歩き始める。その後ろ姿にのろのろとついていきながら、考えはまとまらない。
ベンチでは弁当を膝の上に乗せた妻が、口をもぐもぐとさせながら小さく手を振ってきた。
「なんか、ぼーっとしてたねー。お茶飲む?」
「ああ。ありがとう」
妻が水筒からお茶を入れてくれた。少し飲むと、この世界に来てから味わったことがない、しかし前の人生では頻繁に口にしていた風味が広がる。ドクダミ茶だ。これが妻は好きで、食卓でもよく出た。当たり前であり、しかし失われたもの。温かなそのお茶を飲みながら、しかし体は温まらない。まるで胸に穴が開いたかのようで、そこからすべての熱が出て行ってしまっているかのようだ。
「昨日から変だね」
「あれか。株がうまく行ってないのか?」
「いや、株は順調……」
そう答えながら、株式投資をまったくやってないことに気づいた。あんなに面白いと思っていたのに、昨日二人に会ってからパソコンに触ってもいない。今日の日経平均株価を見てもいない。
昔からこうだった。何かあるとすぐに視野が狭くなる。目の前のことに集中しすぎて、周りが見えなくなる。そして肝心なことを見落として、失敗する。今回もその最たるものだろう。目の前の金儲けのチャンスに飛びつき、それに集中し、その恩恵を共に享受したかった家族を失おうとしている。
どうにか、どうにかできないものか。
「あのさ」
考えがまとまらないまま、口を開いた。
「もしもさ、過去に戻ってやり直せるとしたらさ。何がしたい?」
「いきなりどうしたの? 悩み事か?」
「いや、仮にだよ、仮に」
何も考えてないことを言い訳するように笑って見せたが、自分が陥っている状況を打開するヒントを得るには、とっさに出たにしては悪くない質問だと思った。
「まああれか、強くてニューゲーム的なやつか」
「そうそう。記憶そのままにさ」
友人は腕を組むと首を傾げた。そしてちらりと自分の隣に座る妻を見る。
「俺は、行かないかな。行ったら、せっかく付き合い始めたのにその関係が崩れそう。というか、付き合えなくなりそう」
その言葉に、息が止まるほどに驚いた。そんな言葉が返ってくるのか。
「ちょっと、恥ずかしいこと言わないでよねー」
卵焼きをかじりながら妻が顔をそらす。少し赤くなっていることがさらに自分を追い詰める気がした。
自分がおかしいのか? 人生を変えたいと思ったことが間違いだったのか?
「それは、お前に変えたい過去がないからか?」
「んなわきゃない。幸い死んだほうがまし、みたいなのはないけどさ。人間20年も生きてりゃ、目をそらしたい過去とか、あれをもっと真剣にやっておけばよかったとか、あのゲームもっと早くやっとけばとか……あの時あの選択をしておけば、みたいなことはあるもんだろ。でもさ」
友人は妻を見ながら続ける。
「仮に付き合ってなかったとしても、それでも積み重ねたものってのはあるし。それに今だから、自分の手にしているってものもある気がするし。過去に行けば、それも失うことになるかもしれない。なんかこう、偶然手にした、みたいなものはほぼ手に入らないんじゃないかな? これがゲームなら、やり直せば同じところにたどり着くとはおもうけどね」
「……なんでだよ。一度手にしたもんだろ」
「バタフライエフェクトだっけ。少しの変化が、めぐりめぐって大きな変化になるってやつ。過去に戻ってさ、呼吸の一つ、心臓の鼓動の数、流す汗の量みたいな生理現象も含めれば、この人生と同じように生きるのは不可能だろ。蝶々の羽ばたきでも大きく変わるなら、今言ったようなことで大きな変化が起きることは否めないんじゃないかな」
「そんなん、小さな変化だろ」
「かもね。でも何かを食べるとか、何かを飲むとか、そういったものだって異なるだろ。そうすれば、厳密的に今のこの体と同じとは言えなくなる。今は健康だけどさ、病気しがちな体になることだってあるんじゃないかな。細胞レベルで変化があるだろうから」
「そんなこと……」
小さなこと、そう続けようとして気づく。
妻は友人と付き合い始めてしまった。それは自分の行動の結果だ。前回の人生と異なる行動による変化だ。それは理解できる。だが確かに、この半年間の生活は前回とは違う。食べるものも、運動量、太陽の光を浴びた量も違う。条件が違えば、今の身体と前回の身体は違うといえるだろう。友人の言う細胞レベルという意味では、もう全く同じ体にはなれない。
では、前回の身体から生まれてきた自分の子供はどうなる? 妻と子供を作ればあの子に合えるかと言えば、そうは言えないのではないか。妻との間に子供を作れば、あの子に合えると漠然と思っていたが、それは異なるのではないか。
妻と自分の、ほんのわずかなかけらによって、あの子は生まれてきたのではないのか。であれば、そのかけらが完全に一致しなくてはあの子は生まれず、そしてもうその道はないのではないか。
「えっと、大丈夫? 顔色、悪いよ?」
「なんか俺、変なこと言った?」
心配そうな表情を浮かべた二人に反応できず、鉛のような足を動かし、踵を返した。
背中に聞こえる二人の声はただの音としてしか感じられず、それが言葉として自分の中に入ってくることはなかった。
気が付いたら部屋に戻っていた。パソコンは相変わらず稼働しつつづけ、株式投資の収支をグラフで表示し続けている。それは相変わらずの右肩上がりで、数日前ならこれを見て延々と酒が飲める、そんな心持だった。
しかし今は違う。10億を超える含み益にも、上がり続けるグラフにも、何も感じない。今ならわかる。これは、手段だ。目的ではなく、手段だったのだ。目的を達成するための手段だったのに、この手段のために目的となるものを失ってしまったのだ。
「もう会えないって? もうあの声を聴くことも、あの温もりを抱きしめることも、できないって?」
意識せず、両の手が中空をさまよっていた。なにか、抱きしめるものを探すように。しかしその手に抱きたいものは、もう手に入らない。
拳を握る。そこを起点に、全身に力が入る。身体がぶるぶると震えるほどに。
そんなつもりじゃなかった。金があれば、もっと幸せになれると思った。もっと幸せにできると思った。だが幸せは、すでにあそこに合ったのだ。
毎日が飛ぶように過ぎ、必死に仕事をしているうちに1年が終わる。何か大きなことを成し遂げることもなく、ただ生きるために働き続ける。自分の中に何か特別なものがあるとも思えず、自信というやつがなかった。ただ日々を漫然と過ごしているようにも思えていた。だがそれは、そうすることできちんと生きていけているという意味でもあったのだ。
風雨をしのぐ場所がある。飢えることなく毎日食事ができ、そして大切な存在が近くにある。そうだ。あれは、失ってみなければわからない、当たり前の幸せというやつだったのだ。
「あああ」
震える唇から声が漏れた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
それは獣の声のように部屋の中で響いた。
風が吹いた。冷たい夜風が顔を撫でていき、いつの間にか流していた涙が顔の熱を奪う。それこそ冷や水を浴びせられたかのように。
「あ?」
涙でゆがんだ視界から、パソコンの明かりが消えていた。そのかわりに見えるのは、うっすらとした人型の輪郭。
「大丈夫ですか?」
目の前に人物から、柔らかな声を掛けられる。慌てて涙をふくと、そこにいたのは占い師。あの時、自分を過去に戻した、占い師。
周囲を見渡すと、辺りは暗く、頭上の街灯がうっすらと自分たちを照らしている。家路の途中にある公園の入り口。閑散として人気のないその場所に、占い師は座っている。反射的にポケットを探り、スマホを取り出した。日付は、友人と飲んだあの日の夜だ。時間もほとんど立ってない。
改めて目の前の占い師に目を向けた。占い師は泰然としたまま自分を見ている。すこし視線を落とすと、机の上に置かれた水晶玉が目に入る。それは怪しく光っており、吸い寄せられそうな気持ちになって慌てて目をそらした。
大きく、大きく息を吐いた。自分が過去に戻ったあの日の夜に今はいる。あの瞬間に今はいる。自分を過去に戻した占い師が目の前に立っている。そう理解するのに少しの時間が必要だった。
「どうでしたか? 過去は変えられましたか?」
その声に占い師を見た。興味深そうな目が、自分を見ていた。口元が隠れているのに、彼女が笑っているのがわかった。
「うまくいきませんでしたか? では……もう一度行ってみますか?」
占い師の言葉に全身が震えた。後ずさりをして、必死に首を横に振る。
「い、や。いい。いらない。冗談じゃない!」
酔いは完全に冷めていた。占い師に背を向け、必死で足を動かす。ここからすぐに離れたかった。占い師に何かされる前に、家に帰りたかった。妻と子を抱きしめなければいけない。運動不足の身体にムチ打ちながら、とにかく家に向かって走った。
「あらあら。行ってしまいましたか」
占い師は立ち上がると、彼が落としていった包みを拾う。中身は開けるまでもなく匂いでわかる。焼き鳥だ。家族へのお土産だったのだろう。好みから言えば稲荷寿司の方がよかったが、まあ贅沢は言うまい。
「これは報酬ということで」
占い師はそう言ってくすくすと笑うと、古い街灯が瞬く。ふたたび街灯の光が戻った時、占い師は煙のように消えていた。
静かな住宅街の夜だけが、そこにはあった。
現状把握。喜び。できることの羅列。実際に動き始める。可能性の嵐。喜び。調子に乗る。金を手に入れる。今までやったことのないことをやる。
家族に会う。未来の妻に合う。記憶と一致しない。雰囲気。距離感。
前にうまく行っていたことがうまくいかなかった。自分を中心に、自分が知っていた未来から離れていく。
手に入らなかったものを手にした代わりに、手に入っていたものが手に入らなくなっていることに気づく。娘に二度とあえない。
空気や水は当たり前のようにあり、ありがたみが薄れるもの。だが、なくしたときにその本当の大切さに気付く。どうすれば再び手に入る?
やり直しで手にしたものをすべてなげうってでも、また娘に会いたい。あの頃の妻に会いたい。そこで目が覚めた。
水晶玉から顔をあげた彼を、占い師が見ている。どうでしたか、と。
彼は有り金を置いて、急いで家路についた。

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